昭和40年4月1日月次祭●★★
神様を現す事が、いわゆる信心が神様をお現し申し上げること。氏子が神を神ともちいるということ。金光大神が天地の親神様とはそのうに言うておられたんですね。「この方金光大神を神ともちいてくれ」「神を神と立ててくれ」と、神を神と現して、ね、親神様を親神様として現していった。言うならば信心とは、神をたたえる事であり、天地をたたえる事を体得する事である。
「神様あなたのおかげで」「あなた無しには」と「神様のおかげで」と「なんと神様のお働きのすばらしい事か」と「なんと神様の音の鮮やかな事か」と、ね。天然の美を例えばたたえ、たたえますように、あたくし共が神様をたたえ申し上げるということ。しかもそれが心からそれが成されるというところに、お道の信心はあると私は思うのです。ね。
神様をたたえる。それが神様を現す事の出来るおかげを頂かなければ、たたえられんのでございます。神様をお現し申し上げる。今朝から私、御神前に出らして頂きましたら、この先月の21日が親教会の霊様のお祭りでございました。いろいろと回りくどうお供えをさして頂きました中に、いー、文男先生のところにお願いしてから、もう大きい魚が無いすんでねその時に、あちらこちらあったってもらうけど無いから、ようやく一件、まあブリとも、おー、まあカツオともつかんような大きな魚を探し出して頂きました。それをお供えさして頂いたんです。
で、先生がそれこそ親先生が早速この、おー、麻でお絞りになるのです、絞られるわけですこうね、お三宝上げられますために、私も一緒にお取り取りさして頂いてから、親先生は(?)ところがです。その絞った魚のこの、あご、えごと言うですか、あごの所からね、こう血がツタツタ落ちだしたんです。私心中祈念さして頂いてから、お粗末御無礼がでけた。新しいお三宝汚すようなことがあってはならない。御神前を汚す、血で汚すような事があってはならないと。言われておるのにです。
もうその寸前ここから、もうしかも絞り上げてしもうてから、こっから血がどんどん流れるんですね。で、その事を親先生に申し上げましたら、「それはあの包装紙ばの中に詰めなさい」と言うてです、包装紙の新しいのを持って見えてから、それをこう五つも六つもこのくらいのを折られましてね。絞っとるその下から血の出ておる所へそれをお当てになりますとです。その血をその包装紙が吸い取ってしまうんですね。
ピタッと血が止まりました。ははあこういう手があるんだなと思わせて頂くと同時にです、私は分からして頂いた事なんですけれども、今朝からあのう、御神前に出ますとその時の様子を頂くんです。ね。教組の神様のみ教えの中に、御理解の中に「悪い事を言うて待つな、先を楽しめ」と仰るんですよ。「悪い事を言うて待つな、先を楽しめ」と。
二代金光様は、「不浄口を言うな」と仰る。ね。小倉の初代桂先生が丁度、明治37、8年のあの日露戦争の、おー、最中なんです、やはりこの(だいとう全集?)にもございましたように、あの当時にもいわゆる、国債と言うのが出された。債権。それがまあ当時の、そのう、稼働地区、隣共関係にも、おー、配られ、そのう、割り当ててくるわけなんです。
親先生は、親先生はその、お世話なさっておられますから、それを一枚でも余計捌こうと、というお気持ち。ですから参って来る信者にその、「これをようく買っとけ、あれを買っとけお国のためだ」と言うてその、もうお勧めになるわけなんです。ところがある信者が参って来た時に、その信者が言うた。
もうそれがもうあっちの関係こっちの関係から無理に言われますもんですから、「家にはもうずいぶん兼ねました」と言うわけなんです。したら桂先生が仰った。「そんな事言うな。俺ん所の貧乏教会だってこのくらい買うとるぞ」と仰った。途端に神様からです、「桂松平、難儀に考えず貧乏さしたか」と言う言葉があったそうです。ね。
私共、神の声をいちいちそして聞かんもんですから、どのくらいの不浄口を言うても、言わば神様がそれをおとがめ下さらない。注意してくださらない。ね、たったこれだけの事なのですけれどもです、お道の信心で言う不浄とは、成就しない事だと仰るですよね。ね、私共が一心にすがる。一心にお願いをする。神様はその方向に向かって働きかけて下さるように段々なって来るのだけれども、ね、それが不成就に終わってしまう。
「これだけ一心に願っておるのにすがっておるのに、どうして成就しないだろうか」よくよくその成就しない元を正せてみたところがです、只今のように、「成就しないように成就しないよう」に言うておるわけなんです。ね。そのおかげに不浄のかかるような事を言うておる。私は思うのですけれどもね、教祖のみお、神様のみ教えの一言一言というものはです、もう本気でです、私共が、「はあ、そうだったな」と分からしてもらい、「これからは」とその事に、実行に移さして頂く信心にならして頂いたら、おかげは絶対の物なのである。ね。
「女が菜園に出て野菜を抜く時に、天地を拝む心になれば、おかげがある」と、おかげがあると断言しておられるのに、私共がそれを拝む気持ちにならんじゃないか。「それを煮て食する時に、神様いただきますという心あらば、さわることなし」と仰るのに、ね、それを煮て食する時に、不平を言う、不足を言う、口上を言うておると言うような不浄口がです、そういう不浄口がもうすでに、言わば「さわることなし」と仰るのに、それがさわっておるということになるのです。ね。
私はね、教組の神様が断言、断言して私共に教えておられる。「こうせなこうなるぞ」と「人を軽う見たらおかげはなし」と、もうおかげはなしと断言しておられる。それにして、言わば容姿が悪いとそれを見くびる。少しチャラチャラした格好をしてござると、その人を、そのこう、まあ、ちやほやする。
そういう心があっては、いわゆるおかげはなし。「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と。それは人だけの事ではない、「物を軽う見たらおかげはなし」と言う事も言える。菜園に出るということは必ず野菜ばだけ、と言う意味ではない。下駄を履く時に、ね、「下駄を履く時に、その下駄を拝む心になればおかげがある」と仰るのである。
自動車に乗る時にね、その自動車を、に乗る時に「拝む心あらばおかげがある」と仰っておるのであり、「今日一日どのような事があっても、不平不足は申しません」と。「どのような事があってもそれを有り難く頂きます」と菜園に出てそれを抜いて、ね、有り難く神様にお礼を申し上げる心があり、煮て食する時にそれを「神様いただきますという心あらば」というような心でです、一切を頂きます。
例えば、悪い人が皮肉を言うたとすることも、頂きますということになってくる時に、それはその人でなくて神様のお声である事が分かって来る。「皮肉じゃあない。神様のお声なのだ」と。「神様から皮肉られておるのだ」はっと気付かせて頂く事があるのだけれども、気付かせて頂く事をよそにして、「あれが私にあんな皮肉を言うた」と言うて心を暗くする。ね、心に障っておるでしょう。
どうでしょうこの心に障らなくなる。障らなくなると言うだけのおかげを頂いただけでも大した事なのである。そういうようなみ教えを一つ一つこう頂いとりますとですね、教祖の神様はそうして、もうこうだ、ああだ、とこうはっきりご自分の信心体験から、天地の親神様から直接教えられた事をです、ね、「こげんすりゃ、こうすりゃこうなるだろうと思う」などと言ったような言葉は一つもお使いになっていない。ね。
ですから、それを私共はそれだと、それをそうだと信じさしてもらえる。確信さしてもろうて、そう本気で行じさして頂くところにそういうおかげを頂けるのである。いわゆる神様をお現し申し上げる事が出来るのである。それがもっても「花が咲くならもう枯れ木に花たい」と言うようなおかげがです、そうする真心一心を以ってのそうした意味合いにおいての信心が、枯れ木に花が咲くようなおかげを頂いたとしてご覧なさい。ね。
はあ、神様ち言うのはもうえらい事仰る。金光様ち言うもうなんとそのすばらしい働きを、ご利益を下さる事であろうか、とそれを知るものが全部素晴らしい。素晴らしいと神様ということになるでしょうが。神様をたたえる。おかげを受けなければ、たたえる事も現す事も出来ないということ。
「悪い事を言うて待つな、先を楽しめ」と。と仰るのに、悪い事ばっかり言うて先の事一つも楽しまない。どうですか。ね。私共の心の中にある物はそりゃ汚い物かもしれません。けれどもです、この五体の中にある間は、まだ汚い物じゃあない。むしろ尊い物なのだ。清らかなのだ。大事な物だ。一端それがです、出される時、それは不浄ということになるのですよ。ね。
例えば喀血をする。吐血をする。これはもう不浄な物として誰でも触る事もないでしょうが。大小便でも同じ事。ね。けれどもこれが五体の中にある間は、あれば尊い物であり。ある場合は必要な物であり、清らかい物であることになるでしょう。ここのところの道理を皆さんがお分かりにならにゃあいけんと思う。
今朝からわたくしはが御神前に頂かしてもろうてから、ね、21日のお月次祭の日に大きな魚を絞らせて頂いたら、そこから血がツタツタ落ちだした。そこで親先生は、包装の紙をもってそこをお止めになった。私共の心の中からでもです、ほんとに不平不足を言わなければおられないと言うような場合があるけれども、さあその不平不足が出たんでは不浄になるのであり、それが不浄の基を作るのであるということ。
そこで「金光様、金光様」と言うその紙(神)をここへ詰めるのである。「金光様、金光様」と言う包装紙(神)をこうやって、ね、そこへ詰めるのじゃ。神を信心を、信心をそういう時に現すのじゃ。そこに神様の前を汚す事もなければ、それが願い事成就のおかげの基にもなるということになるのですから。ね。有り難いじゃないですか。
今日は私は神様をたたえるということ。ね。信心とは神様を現す事だと言われておる。はあ、明日から金光様の信心一家中でしなさるが、火の出る勢いで儲けだしなさる。家族中もいつも円満で、ね、しかも健康で、子供さん達の出来もええ、と例えば人が言うならば、それはその人の家をたたえると同時に、すでに金光教をたたえているのであり。金光様をたたえているのであり。その人の取次を願う教会をまたは、親先生をたたえておるのであり。ひいては天地の親神様をたたえておるということになるのです。
だから、たたえる前に、まず私共は神様を地に引き下ろすような事はしてはならないということ。ね。不浄な事をしてはならぬ不浄を言うてはならないということ。その不浄がです、願い事不浄になる、不浄に終わってしまうところの基になる、土台になるということ。今日私、五十二回の誕生日を迎えさして頂きました。
朝から皆さんが本当に言うて下さる、「親先生おめでとうございます」ち。「もう本当に考えますと親先生がもし、椛目におられなかったら私共一家ございません」と、「私共の今日はございません」と言うて、えー、改めてお礼を言うて下さる。ね。これはいうならば、たたえられておるわけだと思うですね。もうあげな奴が世の中に生まれて来てから、世の中を濁したり汚したりしたと。
あの人の生まれたという事が、世の中を清めたり、明るくしたりする事が出来た。というようなおかげを頂かにゃあならん。そこで教組の神様は「いつも元日の心でおれ」とこう仰る。ね。例えば言いたい事でも、悪い事は言わん、言わんでしょうが。縁起の悪い事なんかはもうこっからここまで出る、出かかっても、そら縁起のよかことばっかり言わんならんと思てから、良い事しか言わない。ね。
ですから心の中には不浄の事が起こっておっても、それを「金光様、金光様」て出さないから、さっきのブリのそれと同じ事、紙で止めるわけなのである。中に現れたは神様、それを「お前は心の中にもそんな汚い物を持っておるじゃないか」と言うように、おとがめになるような事はない。
そこぞ天地の親神様ですから御寛大。それを出すところにです、言わばそれは不浄になり、不浄口になり。それが例えば冗談ですら桂先生の事あればです、ね、「俺んとこみたいな貧乏教会ですら」とこう仰った。神様それをトット押さえるようにして仰った。「桂松平、汝にいつ、神が貧乏さしたか」とこう仰った。そういう不浄口をたたくなとこう仰ったわけなのである。
そういう意味合いにおいて私共は神様からです、いちいちお知らせは頂かないけれども、どのくらい不浄な事を言うたり、したりしておるであろうか。子供捕まえて「この馬鹿が」とか、ね、「お前は馬鹿じゃなかか」ち言うてからも、家内はもう、もう今日私その事をこの御理解頂いてから、もう一生懸命その事を辛抱さして頂かんならん程、(日頃?)言うごたるあるそうですね。
こちらがその気になるとそのかわり家内もおかげを頂きます。もう言い訳ということになる。とにかくすみませんということに、今日なっておる体験を頂いてから、はあ、これは一生懸命辛抱してるなあ、馬鹿じゃなかろうかなんてな、ち言うような事言うちゃならんと思います。ね。こちらが本気でその気になると、神様はもう早速おかげを下さるということです。
今日、伊万里の竹内先生から、えー、誕生のお祝いの電報を頂いた。その中にこういうふうに長々と書いてある。これはいわゆる、私をたたえて下さるわけ。ね。
お誕生日おめでとう存じます。親先生が今の世にお生まれにあそばされまして、あそばされ、えー、お生まれてあそばしていることをか。神様に感謝し、感謝します。一層のご健康と弥栄(いやさか)を祈ります。竹内一同。
えー、その電報がきておる。ね。本当に信心がなかなら調子に乗り過ぎにならせんじゃろうか、と言うたたえ言葉なのです。しかし、たたえ言葉って言うものはいいでしょうが、有り難いでしょうが。今の世に親先生がお出でなかったらとこう、この世におかげを頂いておられた。しかもこの時代に私共は、椛目に御神縁を頂いたということは、と言う意味が書いてあるわけなのです。ね。
私はそのたたえて行くということが大事だと思う。ね、ですからその、神様をたたえる。ね。歌の、あれは小学校の時に習いました「天然の理」と言うのがありますよね。「空にさえずる鳥の声」です。「峰より落ちる滝の音」そういうような情景やら、そういうその見たり聞いたり致します時に、誰だって例えばこれが生まれないはずはないわけです。すばらしいなあ、とかなんとか言うんです。ね。
ところがそれとは反対の、ね、それとは反対のなかにあるとです、ね、雑音的中にあると、あぁーうずらしい、煩わしい「もうほんにこの世なんかはもう嫌だ。もうほんにあの世行きした方がましだ」と言ったような事を平気で言うておる。これなんかはもう、神様がお聞きになったらもう氏子に聞く耳を持っておったら、その場で訂正なさる事であろうと私は思うですね。
天然の理のお殿様も思う事はないですけれども、一切がそのような天然の理として頂かなければならない。昨日の朝、あー、福岡の麻生さんが朝の御祈念に参ってみえてこうお届けをされるのです。「先生、今日こういうようなお夢をお知らせを頂きました」その話が素晴らしい。
●★何か丁度、ご造営かなんかのために、このう、なんか山で工事があってるらしいですねいうなら、ブルドーザーが入ってからの整地をやってるわけなんです。ところが何かの問題でです、その問題が対立したわけんです。ね。片一方の者は赤と言い、片一方の者は白と言うわけなのでしょう。そしたらです、天の一角から声が聞こえてきた。「天の御理解」と言う声だったち言う。「天の御理解」ということ。
そしてです、そこにあった岩がです、丁度このお説教台の上のように、飾りのようにこう切られたような、その岩の上にです、文字がいっぱい書いてある。丁度、モーセがあの天譴(てんけん)を受けた時のような情景だったわけなんですね。キリストの。そのモーセがです、もう素晴らしい事が書いてあったけれども、分からないけれども最後に書いてあったのはです、ね、雲の何とかという事と水の心と書いてあったそうです。ね。
そこで私、その事を神様に畏れさして頂きましたらですいわゆる「行く雲流れる水」ということ。椛目の信心の御流儀であるということ。成り行きを尊ばせて頂き、それはどういうように腹の立つ事であっても、それをむしろ合掌して受けて行けというのである。ね。向こうが三角でいっとるのなら、三角の受け物で受けて行け。丸で出て来るなら丸い受け物で受けて行け。
成り行きを尊ばせて頂け徹底。そこから道が開けてくるのであると。いわゆる、天地をたたえながら、たたえておれと言う事なのですどのような事の中にでも。ね。行く雲流れる水の心である。ね。そういうような事が私はです、ね、良い事ばかりが有り難いのではない。その事だけが有り難いのではない。照る事だけが有り難いのではない。
降る事も有り難いなら、照る事も有り難い。それを自分の都合が良いと、おー、照ってから曇ると言うたり、照ってから有り難いと言うたり自分本意で行こうとする。ね。そこで、自分本意である信心ではいけん。いわゆる、我情を取れ我欲を取れと仰るのはその事なのである。
自分の思いをまず捨ててからかかり、自分の右がいいと思ておる。ところが片一方だけ左が良いと思う。いいや、悪か(誤解を?)お前ら全員悪か、ということになってくるわけなんです。そういう時に、我情を取れということである。自分の思いを取れということである。そして、うんなら御神意でも伺いおうて、ということにならなければいけんのである。それを合掌して行け。一切を合掌して、いわゆる、受けて行くという。
先程の御理解の中にもございますように、ね、「大地を拝む心あらばおかげがある」と仰るように、ね、それを煮て食するときに神様頂きますという心あらばです、障る事なし。この心に障る事がない程に、この心が豊かに大きくならして頂けるところに、限りない大きなおかげが、またここに約束されるわけなのである。
私共が本当に神様をたたえさせてもらう。神様を現さして頂こうとする前に、まず、神様をです、地に叩き落すような思い方やら、有り方やらあってはならないことをまず、改めなければならない。今日の朝の御理解を頂いて、今日一日、今日の御理解を頂かれた方達が、そうであったでありましょうように、私もその事を本気で行じ抜かせて頂いた。なるほど、このような例えば冗談口でも、「お前は馬鹿じゃなかろうか」と言ったような言葉でもです。ね。
それがほんとに、相手の心を傷つけるような、ね、相手を落胆させるような事ではなくて、相手の心を生き生きとさせる。相手の心をめでたいような心にさせる。相手の人をたたえてあげれるような、私は、言葉やら、いわゆる言動が必要であるということ。そこんところがですね、「この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労せん」と仰るように、それはどうするね、と言った不浄口ではなくて。それはもう神様のおかげだと、神様のご都合よと、ほんと、本当にそこのところがスッキリ言えれるようなね、お繰り合わせ頂かなければならんことが分かるでしょう。
神様をお現し申し上げる前に、まず、神様をです、あれどんが信心しておる。金光様もいい加減なもんである。というような有り方であっては、神様を現すどころか反対に引っ込みさせておるような事になるでしょう。ですからまず、ここのところから改めさしてもらう。いよいよ神様をお現し申し上げられる事の出来れる。どのような場合にでもそれが出来るおかげを頂きたい。ね。
家族の中において、おいてはです、一同の者が正月のような気持ちでです。ね。相手の心を暗くするような、相手の心の中に傷をつけるような事を言い合わないような、私は精進というか、ね、修行が必要であるということ。そこから生まれて来るのは、あー、その、おかげであるということ。今日、私一日体験さして頂いておるようなものであるということ。ね。
お道の信心で言う不浄とは、成就しない事であるということ。ね。不成に終わるということが不浄であると。そこで私共が、例えば神様に願いをかけさせてもらう、願いを立てさせてもろうてから、その願いが成就する時に、神様をたたえる事になるのであり。それが叶わない時にはです、私共が、叶わないような基、いうならば、その不浄口を言うたり、ね、神様の心に背くような有り方でです、いわゆる神様のみ教えを本気で、み教えに取り組んでいないということに本気で分からしてもろうて。
神様は断言して下さる。「こうすりゃおかげになる」と。ね。だから、こうして、こうして行く事を信心と思い込ませて頂いて、精進していかなければならないと言うふうに、まあ思うのでございます。いよいよ、おー、ここの、おー、記念祭を目指しての、おー、神様をいうなら、お現し申し上げられる一つの方法として、ご造営が思い立たれておるのです。もう一生懸命である。皆さん。
ところがあまりにもその、一生懸命であるために、いよいよ本番と言う前にです、もう、へとへとに疲れて行きよるんじゃないだろうかというような、一部の方とです、ね、ご造営がありよる事ですら、知っておるのやら知らんでおるのやらです。まだ一遍もお届けさえしない人がおる。ね。「どうぞ一つ、万事にお繰り合わせ頂いておかげ頂きますように」と言うような願いを一遍もまだしてない人。もうしなければならないはずの人が、しない人がおる。
また、思うてもいない。かいごんでも出てこないそんな人がある。片一方の方は、まーだ、言葉、言葉に疲れよる。片一方の方は知らん顔しとる。これじゃ成就するはずはないと思うですね。椛目にとってこういう大きな、うーん、御用は、もうまたとなかろうと私は思うくらいでございます。
何故って、まだ椛目が、いわゆる微力だと私は思う。そういうまだ段じゃないと思う。けれどもここにです、ね、どうでもそうしなければならないような事になってしまって、意地とか義理とかと言ったようなものではございませんけれども、そうしなければ神様をお現し申し上げる事が出来ないというようなところに、立ち至っているのである。ね。
昨日、その事私、神様にお願いさしてもらいよりましたらです。★実行委員の事を「百名」と頂いた。だから、あそこに実行委員百名書いてある。どうぞ皆さん、皆さんの名前が載っておるか、載っていないかもしれんひょっとすると。それは十三日会とかいろんな会、あーその、お日参り組とか。ね。
えぇまあいろんなところから、こうずっとこう、書き出させて頂いたのですから、ね、どこにどうして漏れておるやら分からんにいたしましてもです、やはり、実行委員に、としての自覚を皆さん持たせて頂いて、ね、自分じゃ出来ません。とても今のような状態では出来はせん。とさじを投げずにです、そこのところを神様におすがりして、成就のおかげを頂きたいと。ね。
ためには、私共それが成就する事のために、私共が、今日頂きましたようにです。神様を現す事のために、まず、神様を現す事とは反対の事をです、まずそこから改まっていかなければならない。なるほど、ご造営も大事であるけれども、信心のそういう意味合いにおいての造営が、より大切である事を痛感いたします。どうぞよろしゅうおかげを頂きますように。
明渡 孝